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猪瀬直樹「かつての天皇誕生日『12月23日』に行われた絞首刑。日本の皇室にアメリカが刻んだ十字架とは」

中公文庫編集部
12/20(月) 11:32
マッカーサーと昭和天皇(wikicommonsより・以下同)

もうすぐ年末。12月23日が祝日ではなくなったことに、まだ戸惑われる方もいるだろう。平成の世では30年にわたり、「天皇誕生日」として祝われてきた。しかし実はこの日、日本の皇室に重い十字架が刻まれていたことをご存知だろうか。 その真相に迫っているのが『昭和23年冬の暗号』(猪瀬直樹著)である。謎解きは、副都知事時代の猪瀬直樹氏のもとへ届いた一通の手紙から始まった――。

【写真】副知事だった当時、ある手紙を受け取ったという猪瀬直樹氏

* * * * * * *

謎めいた手紙と子爵夫人の日記

作家であり、当時、副都知事だった猪瀬氏のもとに、一通の手紙が届いた。亡くなった祖母の日記を入手したという39歳の女性からの手紙である。
とある子爵夫人によって綴られたこの日記は、終戦を間近に控えた昭和20年から始まり、昭和23年12月7日に終わっていた。
最後の一文は「ジミーの誕生日の件、心配です」。

いったいこの女性が何を心配していたのか。なぜ突如、ここで日記が終わっているのか。
手紙には、その謎を解き明かしてほしいと書かれていた。

さっそく猪瀬氏はこの日記を読み始める。
冒頭は昭和20年3月10日、東京大空襲のあった日だ。邸宅のあった世田谷から、下町が焼かれる火が見えた。
5月25日には再び空襲があり、今度は子爵邸の敷地にも焼夷弾が落とされた。服に燃え移った火を、地面にごろごろ転がって消火したという恐怖の一瞬が書かれている。

戦火を逃れ、母子は夫を東京に残し、軽井沢の別荘へ疎開する。
十二歳の息子に食べさせるため、夫人は食糧を求めて必死に奔走した。
戦争は庶民からも上流階級からも日常を奪う。誰もが非日常を生き抜いたのだ。
そして同年8月、日本は終戦を迎える。

東京大空襲の焼け跡
皇太子明仁さま(1945年)

終戦後も続いた「疎開」

終戦を迎えると、夫人は軽井沢から帰京した。
しかし息子は奥日光にいた学習院初等科の級友たちに合流した。当時の皇太子明仁を含め、生徒たちはまだ疎開を続けていたのだ。

戦争が終わったのに、なぜ東京に戻らないのかと思われるだろう。
いや、終戦を迎えたからこそ、新たな危機が皇太子に迫っていたのである。

なにしろ、これから占領軍が進駐してくるのだ。天皇と皇太子の処遇がどうなるのか、誰にもわからない。皇太子がアメリカに強制拉致されるかもしれないという衝撃的な情報もあった。
また、徹底抗戦を唱える日本軍兵士も多く残っており、直情的な軍人たちが皇太子を盾に立てこもる可能性もあった。

そんな張り詰めた状況のなか、皇太子ら学習院の生徒たちは、毎日、奥日光の金精峠(こんせいとうげ)を歩いて越える練習に励んだ。
この峠を越えれば戦車に乗り、軽井沢方面へ退避できる。しかし、峠への道中には湿地帯があり自動車も馬も通れない。
いまとなっては笑い話のようだが、いざというときは駕籠で皇太子をかつぎ、徒歩で逃げのびる計画だったのである。

子爵夫人の息子もこの訓練に励み、その様子を手紙で母親に知らせた。日記にはその手紙が挟まれていた。
そして息子が「ご学友」であったという点から、猪瀬氏は「ジミー」の手がかりをつかむ。
それは皇太子のニックネームだったのだ。

学習院の生徒たちが無事に帰京したのち、授業が再開されると、英語を担当したアメリカ人の教師、エリザベス・バイニング夫人は、生徒たちに英語の名前をつけた。
先頭からアルファベット順に、アダム、ビリー……ときて、皇太子は「ジミー」。

猪瀬氏はバイニング夫人の著書『皇太子の窓』を読み、このことを知っていた。
子爵夫人も、皇太子につけられたニックネームについて、息子から聞いていた可能性は高い。つまり、「ジミー」は皇太子明仁を指すのではないか。
では、「ジミーの誕生日」に、何があったのだろうか。

マッカーサーと天皇制

日記が書かれている昭和20年から23年の期間は、日本にとって大きな節目となった時期である。
東京裁判によって過去が裁かれ、日本国憲法によって新しい国のありかたが決められた。

GHQの最高司令官マッカーサーは、日本を平和的に武装解除するため、天皇制の維持が不可欠だと考えていた。
しかし戦勝国の間に天皇の戦争責任を問う声は根強く、国際法廷に引きずり出される可能性も高い。

そこで、他国から口出しされる前に、新憲法の骨子を決めてしまおうというのがマッカーサーの作戦だった。
天皇の権力を制限し、武力は放棄する。この案が先んじてワシントンの「極東委員会」に届けられれば、天皇の不起訴が決まる可能性が高い。

しかし、日本政府による草案づくりは遅々として進まなかった。

業を煮やしたマッカーサーは、とうとう部下に命じて、新憲法の草案を作らせてしまう。
中心になって進めたのは、マニラで苦戦をともにした腹心・ホイットニー准将と、民政局次長のケーディス大佐である。
ホイットニーもケーディスも弁護士資格をもつ軍人だった。慌ただしく専門家が集められ、1週間の突貫工事で草案は完成した。

昭和21年2月13日、この草案は驚くべき演出とともに、外相の吉田茂邸に持ち込まれる。
使者は、ホイットニー、ケーディス含め4人である。

吉田茂首相

B29と原子爆弾

吉田邸ではちょうど、憲法草案の検討が行われている最中だった。そこへ突然、アメリカ側が完成案を持ち込んだのだ。
吉田外相、憲法調査委員会の委員長である松本丞治博士、通訳の白洲次郎らは愕然とする。

そしてその頭上に突如、轟音が響いた。
低空飛行するB29の音である。
ホイットニーらの訪問からきっかり10分後に飛来するよう、手配してあったのだ。

さらに吉田邸の美しい庭を眺めながら、ホイットニーはきわめて恐ろしい冗談を口にする。
「われわれは、戸外で原子力の起こす暖(=太陽の熱)を楽しんでいるのです(We are out here enjoying the warmth of atomic energy)」

B29による空襲とヒロシマの原爆をかけあわせた警告に、アメリカの強固な意志が現れていた。

その後、この草案をめぐっては激しい綱引きが行われるが、同月22日にはほぼ日本政府に受け入れられる形となる。

草案はすぐさまワシントンの「極東委員会」に提出され、4月3日、天皇の不起訴が決まった。
2月13日に提示されてから2カ月、すべてがギリギリの進行だった。

そしてこの間、ケーディス大佐と、日記の主である子爵夫人が出会っているのだ。

当時の日本の内閣書記官長は、情報収集のため、GHQの高官を招き夕食会を催していた。子爵夫人はホスト側の応援として呼ばれていたのである。

厳しい疎開生活を経て、子爵夫人は自力で人生を切り拓く手応えを感じていた。そんなとき出会ったのが知性と活力あふれるケーディスである。
特権階級の甘えから抜け出せない夫には、もはや愛情を感じられなくなっていた。

内閣書記官長主催の会はその後もさまざまな形で催され、子爵夫人とケーディスの交流は、恋愛へと発展していく。
こうして、マッカーサーの豪腕ともいえる日本占領政策は、その実行部隊の中心たるケーディスの秘められた恋と同時に進行していくことになる。

二つの天皇誕生日になにがあったか

一方、マッカーサーの緻密な計画は次々と実行に移されていく。

4月3日に天皇不起訴が決まると、同月29日、A級戦犯28人に起訴状が伝達された。
4月29日は昭和天皇の誕生日であり、のちの「みどりの日」である。

その後、東京裁判にて2年にわたる審理が行われ、昭和23年11月12日、判決の言い渡しがあった。
28人のうち、絞首刑は東條英機をはじめ7名。

この7名の処刑にいたるまでの進行は驚くべき厳密さである。
12月22日23時40分、この7人が巣鴨プリズンの独房から引き出される。僧侶が立ち会い儀式が行われ、刑場へと向かう。
23日0時きっかりに、絞首台へのぼる階段の前に立つ。
0時1分30秒、刑が執行された。

戦犯が投獄されていた巣鴨プリズン

ストップウォッチではからなければ実行は不可能であり、12月23日、皇太子明仁の誕生日にあわせて処刑されたとしか言いようがない。
まさに皇太子15歳の誕生日であり、のちの「天皇誕生日」となる日であった。

子爵夫人の綴った「ジミーの誕生日の件、心配です」とはこの処刑を指していたのではないか。

そしてこの日をもって、マッカーサーの日本統治における計画は大きな節目を迎えることになる。ケーディスは帰国し、子爵夫人の恋は終わる。
それが日記の途切れた理由だったのだ。

不確かな時代に歴史を振り返る

4月29日と12月23日。二つの誕生日に残された刻印はあまりに明確である。
しかし、戦争の記憶が遠くなるにしたがい、私たちはそのことを忘れてはいないだろうか。

暦のうえの日付だけではない。
私たちの足下にも、歴史の地層が幾重にも埋まっている。

東條英機らA級戦犯が収容されていた巣鴨プリズンの跡地は、池袋のサンシャインシティになっている。
マッカーサーが占領政策を次々と繰り出した司令室は丸の内の第一生命ビルにあった。
ケーディス大佐と子爵夫人が初めて出会ったのは、麻布の旧石橋正二郎邸(旧ブリヂストン美術館永坂分室)だった。

ほんの70年前、我々が暮らしている同じ空間で、戦後を生き抜いた人々のドラマがあり、この国の新しい形が決められていったのだ。

猪瀬氏は、本書の姉妹篇となる『昭和16年夏の敗戦』で、日米開戦にいたる道のりを描いた。
「総力戦研究所」によるシミュレーションで必敗を予言されていたにもかかわらず、日本組織に特有の「空気」にとらわれ、無謀な戦争に踏み切った。

一方、『昭和23年冬の暗号』に描かれた勝者アメリカの、いかに合理的なことか。
両国のくっきりとした対比が、白と赤のカバーから伝わるだろうか。

左『昭和23年冬の暗号』右『昭和16年夏の敗戦 新版』。ともに中公文庫

猪瀬氏は巻末の書き下ろし論考「予測できない未来に対処するために」でこのように述べている。

「現代の日本人は歴史という軛(くびき)から遊離して漂っている。そのためにいっそう強い風(=空気)になびきやすい、そこが危ない」

SNSが普及し、世論はより空気に流されやすくなった。
さらに昨年からコロナ禍という未曾有の事態も生じている。
世界も日本も大きく変化しつつある現代において、「空気」に流されない知性と意思を身につけるためには、足下の歴史を見つめ、学びとるほかない。

まずは過去を知ることで、未来を語ることができる。そのことを、『昭和23年冬の暗号』は教えてくれている。

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