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2025年5月21日、愛知県一宮市で、出産を間近に控えた妊婦が乗用車に衝突され、脳挫傷等の重傷を負った。緊急の帝王切開によって子どもは生まれたが、被害者の妊婦は死亡。子どもは重い脳障害を負い、現在も意識不明のまま入院中だ。しかし、刑法では、「胎児は母体の一部」であり、交通事故で胎児が死傷しても、原則として罪に問われないという。初公判が迫る中、この事故で娘と孫の未来を失った父親が、ノンフィクション作家の柳原三佳氏に現在の思いを語った。
「あの日、娘はいつも通り日課の散歩に出かけようとしていました。私は、『今日は暑くなりそうだから、やめておいたらどう?』と声をかけたのですが、『昨日休んだから今日は行くよ。大丈夫!』と笑って答えたので、私は、『気をつけてね』と言い残し、先に出かけました。それが、娘との最後の会話になってしまいました。あのとき、もっと強く止めていれば……。その後悔は、今も私の胸を締めつけて、離れません」
そう語るのは、愛知県一宮市の水川淳史さん(62)です。
水川さんの長女・研谷沙也香(とぎたにさやか)さん(31)は、初めての出産を7月に控え、里帰り出産をするため両親の住む一宮市に帰省していました。
「結婚して4年、一度の流産を乗り越えて、再び大切な命を授かった娘は、母になる日を心待ちにして、人一倍健康に気を配り、日々を大切に過ごしていました。数日前には、夫の友太(ゆうだい)君が広島から久しぶりに訪ねて来てくれ、二人で『赤ちゃんの名前、どうしようか?』『こんな子に育ってほしいね』と、と楽しく語らっていました。しかし、そんな未来への夢や希望は、一瞬で奪われてしまったのです」
事故から3カ月、沙也香さんの部屋には、新しいベビーベッド、ベビー服、おむつや哺乳瓶、早々に用意を始めていた入院セットなどが、そのまま残されています。
「あの事故さえなかったら……」
水川さんはそれらを見るたび、今も胸が張り裂そうになるといいます。
「娘の命を奪われ、孫の未来まで失った私たち家族の心には、癒えることのない、深い傷が残されました。どれだけ時間が経っても、何ひとつ元には戻っていません。妊婦さんを見かけるだけで胸が苦しくなり、テレビに映る赤ちゃんの姿に、涙が溢れそうになるのです」
事故は2025年5月21日、一宮市の市道で発生しました。以下は、本件を報じる新聞報道です。
『一宮で重体事故』
21日午後3時45分ごろ、一宮市木曽川町門間東島海の市道で、路上を歩いていた30代くらいの女性が後ろから来た軽乗用車にはねられた。女性は病院に搬送されたが、意識不明の重体。
一宮署は、自動車運転処罰法違反(過失傷害)の疑いで、車を運転していた同町門間角田、無職児野尚子容疑者(49)を現行犯逮捕した。署によると、容疑を認めている。現場は中央線のない道路。
(2025.05.22 『中日新聞』尾張版)
水川さんは語ります。
「事故が発生したのは、小中学生が下校する時間帯、しかも住宅地で、見通しの良い直線道路でした。娘は右側の路側帯を歩いていたのですが、そのとき、被告人の運転する車がノーブレーキのまま、逆走状態で後方から突っ込んできたのです。娘は衝突地点から約15メートル先に倒れていたそうです。もしそこに、小学生の集団がいたら、さらに甚大な被害が生じていたかもしれない、極めて危険な状況でした」
事故現場は、水川さんの自宅から歩いて10分ほどの距離。沙也香さんは日課にしていた散歩の途中、突然、事故に遭遇したのでした。
「娘は妊婦でした。最も配慮を要する存在が、最も無防備な状況で命を奪われたのです。裂けた服、血に染まった靴、切れた靴紐、歪んだマタニティマーク……、それらの遺品に触れるたび、娘が受けた苦痛と、この事故の残酷さが容赦なく突きつけられます。
それでも、孫の日七未(ひなみ)に低酸素症以外の影響がなかったのは、沙也香がとっさに守ったからだと思うのです。ほとんどの場合、倒れるときは手をつくなりして、防御するのではないでしょうか。しかし娘は、自分のことより、両手でお腹の子を支えるように頭から倒れ込んだのではないかと推測されるのです」
衝突の衝撃で頭部に大きなダメージを受けた沙也香さんは、事故直後からすでに瞳孔が開き、意識がない状態でした。救急搬送された病院では、脳外科と産婦人科、そして小児科の連携によって、頭蓋骨の開放手術と帝王切開、子宮摘出手術が同時に行われました。
しかし術後、医師から告げられたのは、「脳の機能はすでに停止しており、心臓だけが動いている」という厳しいものでした。
水川さんは振り返ります。
「ICU(集中治療室)で対面した娘・沙也香は、変わり果てた姿でした。私たちは手を握り、何度も名前を呼び続けました」
一方、事故から約1時間半後、帝王切開によって生まれた女の子の赤ちゃんは、事故後、母体の中で酸素が届かなかったため、脳に大きなダメージを受けていました。
「誕生を心待ちにしていた私たちの孫・日七未は、NICU(新生児集中治療室)の保育器の中で管に繋がれていました。医師からは『低酸素性虚血性脳症』と診断され、目を開くこともなく、泣き声もありません。自発呼吸はできず、意識はなく、母の顔を見ることも、抱かれることもできず、この先、一生寝たきりの状態が続くと言われたのです。こんな惨いことがあるでしょうか……」
事故から2日後の早朝、沙也香さんは家族に見守られながら、そして、我が子を一度も抱くことができないまま、31歳という若さで静かに息を引き取りました。
「棺には、沙也香が『出産後に食べたい』と話していた好物のお寿司、お気に入りの服や靴を棺に納め、たくさんの花で包みました。
夫の友太君は、日七未のへその緒の半分を棺に納めていました。突然、伴侶を失い、誕生を楽しみにしていた我が子が重度障害に……、その胸の内は、私たちの想像を超えて、孤独と悲しみに満ちていたことでしょう。夫婦で築きたかった未来を失った彼は、言葉では言い表せない痛みの中、懸命に踏みとどまり、立派に喪主をつとめてくれました」
葬儀には、沙也香さんの死を悼む多くの人が参列しました。その中の一人、沙也香さんの大学時代の恩師は、あるものを持参し、水川さんに見せてくれたといいます。それは、大学の人間科学部で多元心理学を専攻していた沙也香さんが、2016年に執筆したゼミの論文でした。
「タイトルは、『愛知県の交通死亡事故数が5年連続ワースト1という意識調査』というものでした。9年も前のことなのですっかり忘れていたのですが、娘は当時から、多発する交通事故に問題意識を持ち、研究テーマに選んだようです。そのときはまさか、自分自身がその愛知県で交通事故の被害に遭うなど、想像もしていなかったでしょう」
日七未ちゃんが緊急の帝王切開で誕生してから3カ月、NICU(新生児集中治療室)では、今も24時間体制の看護が続いています。3時間おきのミルク、おむつ交換、体位の入れ替え、薬の投与、酸素濃度の調整、たんの吸引、そのすべてが、医療的管理のもとで行われており、退院後も継続的な介護が不可欠です。
しかし、現在国内には1歳未満の重度医療的ケア児を受け入れられる施設がほとんどなく、退院後は「自宅介護」が前提だといいます。
「日七未の父親である友太君は、“生きるため”に働き続けなければなりません。日中の介護を担うことは現実的に困難です。
また、医療的ケア児の介護には、専門的な知識と継続的な体力が必要で、命の責任を家族だけで背負い続ける現実はあまりにも重すぎます。この状況は、医療的ケア児とその家族が抱える社会全体の課題であることを、この立場になって初めて知りました」
そんな中、加害者の女性は6月11日、過失運転致死の罪で起訴され、6月13日に保釈されました。しかし、起訴状には、重度障害を負って事故後に生まれてきた日七未ちゃんの名前は記載されていません。刑法では、『胎児は母体の一部』とされていて、過失による事故で胎児が死傷しても、原則として罪に問われないとされているからです。
こうした検察の判断にどうしても納得できなかった家族は、8月19日、『妊婦の死亡事故 緊急帝王切開で産まれ、重度の障害を負いながら懸命に生きる娘は被害者ではないのか?「胎児への加害行為に対して過失運転致傷での起訴を求めます」(起訴後は厳罰を求めます)』と題したオンライン署名を開始しました。
沙也香さんの夫・友太さんは、署名の呼びかけ文に次のように記しています。
【胎児への加害行為について、「胎児は母体の一部」とする学説により、過失による事故で胎児が命を落としても、原則として罪に問われないとされています。しかし、熊本の水俣病事件では、最高裁が「胎児に加えられた侵害が出生後に人に死傷の結果をもたらした場合、業務上過失致死罪が成立する」と判示しています(昭和63年2月29日決定)。この判例は、胎児期の加害行為にも刑事責任が問える可能性を示しています。(中略)
加害者が奪ったものは一人の命だけではありません。二人の人としての尊厳が正当に扱われることを願い、胎児への加害行為に対する過失運転致傷罪での起訴を求めます。】
署名には大きな反響があり、わずか4日(8月22日時点)で、すでに6万件を超える賛同が集まっています。
水川さんも、日七未ちゃんの祖父の立場として、こう呼びかけます。
「多くの方がこの事故に心を寄せ、現行の法律に疑問を持ってくださったこと、本当に心強く感じています。たとえ加害者に刑罰が科されたとしても、娘の命は戻りませんし、孫の未来も取り戻すことはできません。それでも、娘たちが残してくれたものが、少しずつでも社会を動かす力になっていくことを願ってやみません。そして、私たちの声が、誰かの命を守る力の一因となることを、心から願っています」
刑事裁判の初公判は、9月2日午前10時50分から、名古屋地裁一宮支部にて開かれます。検察は今後、日七未ちゃんの被害についてどう判断するのか、注目していきたいと思います。
【オンライン署名】
妊婦の死亡事故 緊急帝王切開で産まれ、重度の障害を負いながら懸命に生きる娘は被害者ではないのか?「胎児への加害行為に対して過失運転致傷での起訴を求めます」(起訴後は厳罰を求めます)
【夫・友太さんへのインタビュー記事】
「我が子を抱くこともできず、妻は逝った… 出産目前の交通事故 帝王切開で生まれた子は今も意識不明」(柳原三佳)Yahoo!ニュース エキスパート