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50年前、ある刑事ドラマが誕生した。瞬く間に人気を得て、7年も続くことになった「Gメン’75」だ。香港ロケでの本格的なアクションや美貌の女性刑事の活躍に魅了された視聴者も多いはず。初期メンバーだったお二人に伝説のドラマの舞台裏を語ってもらった。
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【秘蔵写真】日本人離れした美貌! 20代の頃の藤田三保子さん
50年前の1975年5月、TBSで人気刑事ドラマがスタートした。タイトルは「Gメン’75」。「キイハンター」「アイフル大作戦」「バーディー大作戦」と続いた土曜日夜9時枠の、東映制作シリーズ第4作だ。
“Gメン”とは、警視庁から独立した特別潜入捜査官たち。スタート時のメンバーは指揮官・黒木役の丹波哲郎をはじめ、原田大二郎、倉田保昭、岡本富士太、藤田三保子(当時は美保子)、藤木悠、夏木陽介の7人。最高視聴率は32.2%までいった。メンバーが横一線で陽炎の舞う滑走路を歩くオープニングも話題に。メンバーチェンジしながら、1982年4月まで7年間にわたり計355話放送された。
物語はハードボイルド路線。沖縄返還後の米軍基地問題、3億円強奪事件時効、ノーパン喫茶ブームなど、世相や流行をたくみに取り込みシリアスに展開した。1ドルが200~300円台の時代に、パリや香港やニューカレドニアなど海外ロケも敢行。家庭の週末は「8時だョ!全員集合」の後にGメンを見て夜が更けるのがスタンダードだった。
放送開始50周年を機に、オリジナルメンバーで草野泰明役の倉田保昭と響圭子役の藤田三保子に撮影時の裏事情や亡きメンバーやスタッフとのエピソードを振り返ってもらった。倉田は空手の激しいアクションで視聴者を魅了。藤田は紅一点“女Gメン”として悪と渡り合った。
――お二人がGメンに出演したいきさつは?
倉田 僕は前作「バーディー大作戦」に出演した流れでした。Gメンのプロデューサー、近藤照男さんと僕のマネージャーが親しくて。それでバーディーのアクション路線だと思っていたら、スタートしたら違いました。
藤田 えっ、倉田さんはアクションドラマだと思って草野役を引き受けたんだ?
倉田 うん。でもメンバーで最初に紹介されたのが三保子ちゃんと原田大二郎さんで、二人が活躍する物語、と言われてね。台本もシリアスな内容だから、アクション俳優のオレが出る幕あるの?と頭を抱えた。
藤田 倉田さんが悩んでいたとは、気付かなかったな。
倉田 でも、その少し前までNHKの朝ドラで主演していた三保子ちゃんが出演するなんてすごいと思っていたよ。
藤田 私、実情は厳しかったんですよ。朝ドラの「鳩子の海」(74年)ではヒロインだったけれど、子ども時代をやった斉藤こず恵ちゃんが国民的人気になったでしょ。彼女に食われたかたちで、番組終了後私にはあまり仕事が来なかった。朝ドラの主役は今も「NHK紅白歌合戦」の審査員に呼ばれているけれど、その役も彼女。そんな状況で東京12チャンネル(現テレビ東京)の「世界の文豪」のロケでフランスやギリシャへ行って帰国したら、Gメンの出演がもう決まっていた。
倉田 台本も読まずに決めたの?
藤田 そう。だってお断りする選択肢、私にはなかったから。そもそもGメンって言われたって、なんだか分からないでしょ。マネージャーやスタッフですら、どんなドラマにするか見えていない様子でした。
倉田 「バーディー」が打ち切りで終了した時点で、TBSと制作の東映が契約した分が残っていて、その消化で19話だけやるという話だったしね。
藤田 ヒットするとは誰も思っていなかったでしょうね。Gメンのメンバーはほとんど初対面でした。藤木悠さんだけ、10代のころにドラマ「泣くな青春」でほんのちょっと共演していたのかな。大二郎さんは文学座の先輩だけど、お会いするのはGメンが初めてでした。でも、丹波さんにはスケールの大きさを感じたなあ。貫禄があって、でも若々しくて、圧倒されました。
――Gメンの撮影はものすごくタイトだったとか。
倉田 タイトなんてもんじゃなかった。家族よりもGメンのメンバーといる時間のほうがはるかに長かった。
藤田 あいさつは「おはよう」ではなく「生きてるか?」。撮影中「死にはしないよ」と励まし合っていました。
倉田 放送は週1回だけど、順番に撮影していったら間に合わないから、スタッフはAB2班体制で同時に進行していたよね。
藤田 2班といっても、役者はAB両方参加するから、フル回転です。ベッドで寝る時間がなくて、よくバスタブで湯に浸かったまま眠りに落ちていました。
倉田 それ、死んじゃうよ。
藤田 夕方5時に都内でA班の撮影がアップして、6時から埼玉県の川口でB班の撮影というときもありました。空腹を訴えたら「ロケバスに出前を取ってやる」と言われて、親子丼をかき込んでB班の現場に臨んだ。男性陣は自分で運転して来ていたけれど、22歳で若手の私はロケバス。集合は朝7時に新宿。撮影のアップが深夜2時、3時になるのも珍しくなかった。
倉田 帰れないでしょ?
藤田 夜11時を過ぎると「送り」と言ってタクシーチケットが出るんだけど、経費節減で10時50分に終わることもありました。都下の福生(ふっさ)で深夜1時に終わってからロケバスでスタッフ全員を待って都心に戻り、4時に「もう始発が出るから地下鉄で帰れ」と駅の近くで降ろされた。それですぐ7時に新宿集合だよ。
倉田 女優さんの扱いではないね。
藤田 一度遅刻しちゃった。朝10時にスタジオ集合の日、起きたら10時だった。すっぴんのままタクシーを飛ばして着いたら、その日に限って丹波さんがいたの。
倉田 出番が少ない丹波さんは不在が多いのにね。
藤田 慌ててメイクをしてからセットに出ると、丹波さんが、
「おい、三保子、昨夜は何時に終わったんだ?」
「午前3時です」
「なに? それじゃあ、10時に始めるほうが悪い!」
そう言ってくれて現場が笑いに包まれて、救われました。スタッフもヘトヘトだから、「俺たちも同感だ」という温かな反応だった。
倉田 丹波さんには、やさしいところがあったよね。僕は、芝居が下手だと言われたことがあってさ。
「倉田、お前の芝居は揺れているんだよなあ。でも、下手なままでいい。ただし、ギャラは多くもらえ」
そう言われた。
藤田 どういうこと?
倉田 ギャラを多くもらえば、きっと金額に見合う俳優になるから、って(笑)。
藤田 ああ、なるほど。
倉田 撮影中、丹波さんとのからみで僕がうまくできないときがあるでしょ。すると、目で「頑張れ!」って励ましてくれる。うまくやると「よく頑張ったな!」という目線をくれる。
藤田 そういう人だったね。
倉田 うまくやれないと嫌な顔をする大物俳優もいるけれど、丹波さんは違った。
藤田 ゲストの女優さんが来ると、丹波さん、必ず自分の膝に乗せていたでしょ。
倉田 やっていたね。
藤田 若い女優さんはもちろん、ベテランでも、全員お尻をさわっていた。あれ、最初は今でいうセクハラだと思っていたけれど。
倉田 セクハラではあったと思うよ、今ならね。
藤田 膝に乗せて「お前には背後霊がいる」って言う。すると、みんながゲラゲラ笑うでしょ。ゲストにとっては慣れない現場なので、緊張をほぐしてあげていた。実はとても繊細な方だから。
倉田 繊細ではあったね。
藤田 私、突然、こんなことを言われたよ。
「三保子、オレには隠し子がいるんだ」
からかわれていると思ったけれど、しばらくして報道で事実だと知った。
「三保子、お前は天国へ行ったことはあるかい? オレは2回ほど行ってきた」
とか、霊界のことも大真面目に話してくる。
倉田 三保子ちゃん、Gメンのしばらく後、丹波プロダクションに入ったでしょ?
藤田 お願いして、拾ってもらったの。安心でしょ。
倉田 人をだますことはしない人だからね。
藤田 芸能界は生き馬の目を抜くような人がごろごろいる世界だけど、丹波さんは人として信頼できた。
――Gメンでは、沖縄編、パリ編、香港編が話題になりました。
倉田 まず沖縄編では「東京-沖縄 縦断捜査網」「暑い南の島 沖縄の幽霊」「沖縄に響く痛恨の銃声」を3話連続で、日本に返還されたばかりの沖縄で撮影した。
藤田 沖縄の少女が米兵に乱暴される話でした。
倉田 3話目のラストで、三保子ちゃんが少女たちの敵を取る。砂浜を何度も走っていたよね。
藤田 暑いし、クタクタでした。走るシーンはスニーカーに履き替えて、膝から下は映らないように撮ってもらった。あれっ、あのとき、倉田さんは?
倉田 沖縄には行っていないんだ。三保子ちゃんがメインの回のとき、僕は香港へ出稼ぎに行って、向こうの作品の撮影をしていた。
藤田 そっか。私も倉田さんや岡本富士太さんがメインの回は束の間の休息でした。
倉田 沖縄編は、息子を殺されて失望したおばあちゃん役、原泉さんが鎌で自分の喉を掻き切って自殺しているシーンが強烈だった。
藤田 日本人の少女を乱暴したアメリカ兵が基地に逃げ込んだ後の私のカットは、横からも基地のフェンスの中からもキャッチライト(瞳を輝かせるための照明やレフ板)が入っていてびっくりした。Gメンはテレビドラマでありながら、深作欣二監督や佐藤純彌監督などレジェンドが参加して、劇場映画レベルの技術で撮影していた。
倉田 沖縄編は、アイドル俳優とは違う男性的な魅力もある三保子ちゃんのよさが引き出されていたね。
藤田 その後のフランスのロケは最初、夏木陽介さんと三人で行ったでしょ。
倉田 3億円強奪事件の関係者がパリへ逃げた設定。「パリ警視庁の五百円紙幣」「冬のパリの殺し屋」「パリ-紺碧海岸(コートダジュール) 縦断捜査」も3週連続だった。
藤田 あのロケ、旅行会社のすごく安いツアーで行ったんだよね。座席はもちろんエコノミー。現地では観光用大型バスで移動して、ロケ弁はフランスパンとゆで卵とオレンジだけ。
倉田 いわゆるフランス料理は一度も食べなかった。
藤田 あのシリーズ、評判は良かったんでしょ。
倉田 追い詰められていく恋人同士役の西田健さんと范文雀さんがはかなくてね。海外旅行はまだ高額で、日本人はなかなか行かれなかったから、視聴者の憧れもあったかもしれない。
藤田 あれ以来、プロデューサーが海外ロケをやりたがった。
倉田 国内とはまったく違う映像が撮れるからね。
藤田 倉田さんが主役の香港編のときは、私はすでに降板していました。
倉田 元ゴールデン・ハーフの森マリアさんにメンバーチェンジしていた。
藤田 香港ロケは倉田さんの発案だったの?
倉田 いや、プロデューサーからの提案だった。「ぜひやりましょう。僕が全部責任持ちます!」って即答した。プロデューサーは治安を心配したけれど、絶対にやりたかった。
最初の香港編「香港カラテ対Gメン」とそのパートIIは、2週間のロケで2本撮り。役者、キャスティング、殺陣(たて)、ロケーションの確保、通訳や食事の手配まで全部僕がやった。映画「燃えよドラゴン」でブルース・リーと共演した、友人のヤン・スエも起用した。あの筋肉のかたまりみたいな人間を生で見て、Gメンチームは仰天していたよ。番組がスタートして3年、香港編でやっと僕の本領が発揮できた。それまではずっと居心地が悪かったんだ。
――倉田さんはスタートから約4年の2度目の香港編で、藤田さんは約2年で降板しています。どんないきさつだったのでしょう。
倉田 まず、僕たちより前に大二郎さんが辞めたよね。
藤田 1年目に大二郎さんがやった関屋警部補は殉職。
倉田 大二郎さんはプロデューサーに意見したら、「じゃあ、辞めていい」と言われたと聞いているけど。
藤田 スタート時点では彼が主役というプランだったでしょ。でも聞いたところでは、私のアップが多いことが不満で。
倉田 監督は何人かいたけれど、鷹森立一さんは三保子ちゃんの顔をなめるように美しく撮っていたね。
藤田 プロデューサーによると、大二郎さんは「僕と三保子、どっちを取るんですか?」と言ったらしい。
倉田 それを言ったら降ろされるね。大二郎さんがGメンを続けていたら、大スターになっていたのに。
藤田 私もそう思う。ご本人もGメンへの意気込みは大きかったんじゃないかな。
倉田 プロデューサーが三保子ちゃんを選ぶとは考えなかったのかな。今なら話せるけれど、三保子ちゃんは特別扱いだった。僕も一緒に食事をしたことは一度もなかったはず。ご飯を食べたり家に送ったりしたら、プロデューサーにクビにされると感じていたからね。
藤田 Gメンは、滑走路を歩くオープニングが人気だったでしょ。あれを並んで一緒に撮ったのに、本編の撮影前に消えた人もいた。
倉田 いたね! 大二郎さんの後釜で入るはずだった横光克彦さん。撮影でオープニングと違うネクタイを締めていて、プロデューサーの逆鱗に触れた。
藤田 私もネクタイのせいと聞いていたけれど、あれ、実は私のせいだったらしい。タイトルバックを撮った日にランチを一緒に取ったのが、良くなかったようなの。途中から出演する横光さんは転入生のような立場でしょ。だからよけいな気を使って、私が昼ご飯に誘っちゃった。
倉田 そりゃ、マズいわ。プロデューサーはそんなことを許さない。
藤田 横光さん、すぐに降ろされました。理由を知ってからは、昼も夜も食事はなるべく一人で取るように心がけた。当時は言えなかったけれど、プロデューサーのアプローチ、すごかったの。自宅に頻繁に電話がかかってきて。「今、なにしてるの?」「お風呂は入った?」と。オフの日に自宅マンションの近くから電話してこられたこともあった。ここでは言えないパワハラやセクハラはいろいろ。今だったら第三者委員会を設置しなくてはいけないようなことがたくさんあったのよ。
倉田 女性レギュラーは代々、プロデューサー好みの欧米モデル系の顔立ちだった。三保子ちゃんは婚約してGメンを降りたでしょ。婚約発表してどのくらいで辞めたの?
藤田 すぐクビ。TBSには続けてほしいと言われていたから、プロデューサーの意向だと思う。婚約相手がNHKのプロデューサーだったことも火に油を注いだみたい。私の役は急にインターポールに転属させられた。
倉田 その後仕事は?
藤田 東映は出入り禁止扱い。私、ストレスが原因らしいという膠原病も発病したし、Gメンの後半年ぐらい、疲労から寝たり起きたりの日が続いた。
倉田 プロデューサーは男性メンバー同士の食事も嫌ったから、撮影現場以外ではまったく交流しなかった。
藤田 でも、パリのロケで、一度だけ藤木悠さんの部屋に集まって飲んだよね。
倉田 あった! 藤木さんがでっかいトリスの瓶を用意してくれた。下戸のプロデューサーには声をかけなくてね。
藤田 翌日、プロデューサーはジェラシーですごく不機嫌になっていた。
倉田 藤木部屋で飲んだメンバーをチェックしていたね。香港では夏木さんに頼まれて食事にアテンドしたら、プロデューサーにきつく当たられた。Gメンは息苦しかったし、アクション映画に戻りたくて、僕は降りた。丹波さんは「考え直せ」と言ってくれたけれど、決意は固かった。
藤田 降板はプロデューサーにも直接言ったの?
倉田 「Gメンを辞めるのは、俺が理由ではないんだよな?」と確認されて「それもあります」と正直に答えたよ。それで「Gメン対香港カラテ軍団 PART2」のエンディングで、草野刑事は香港の街に消えていく。
藤田 殉職した役を演じた俳優はその後人気が出るという他局の刑事ドラマの先例があったでしょ。降板の際は、他の番組で活躍しないようにと、私の役もそうだけど、殉職させずに転属や去ることになったのよね。
倉田 その後4年くらい、TBS、東映はもとより、テレビ朝日まで使ってもらえなくてね。厳しかった。東宝系の時代劇の出演がGメンのプロデューサーの横やりでつぶされかけたこともあったんだ。
藤田 えー!
倉田 あのときは「僕がいったいなにをしたというんですか!」とGメンのプロデューサーに抗議に行って、強引に出演したけれどね。仕事がほぼないから自宅の屋上で日光浴をしていたら、撮影で来日したジャッキー・チェンとサモ・ハン・キンポーに新宿のヒルトン東京に呼び出されて。香港では彼らの大ブレイク前から親しくしていたから。干された事情を打ち明けると、その場で映画を3本契約してくれた。うれしくて、涙があふれたよ。
藤田 きついことは多かったけれど、私はGメンで得たものもあったかな。
倉田 Gメンは忘れたいことも多いけれど、スタッフは素晴らしかったでしょ。
藤田 カメラの下村和夫さんは、私の顔の片側だけに照明を当てて、陰影で個性を際立たせてくれた。
倉田 下村さんはすごく優秀なカメラマンだったね。照明も音声も見事だった。
藤田 ワイヤレスがない時代にコンパクトな有線のマイクを服に隠して同時録音をしたり、街中では望遠でゲリラ的な撮影をしたり。
倉田 物語も良かったと思うよ。はかなくて。
藤田 いつもハッピーエンドではなかったね。
倉田 主要な人物ですら、ほとんど死んでしまう。
藤田 人生はハッピーばかりではないという現実を映像にしたことが「Gメン’75」の魅力でしたよね。
(構成・神舘和典)
倉田保昭(くらたやすあき)
俳優。1946年茨城県生まれ。「続組織暴力」(67年)で俳優デビュー後、海外進出を果たし、香港映画界で活躍。74年に帰国後は“和製ドラゴン”として人気に。現在は倉田プロモーションの代表として人材育成にも力を入れる。
藤田三保子(ふじたみほこ)
俳優。1952年山口県生まれ。73年文学座附属研究所夜間部へ入学。NHK連続テレビ小説「鳩子の海」でヒロイン鳩子(大人時代)を演じて一躍注目される。テレビ、映画、舞台に出演する他、画家、シャンソン歌手としても活動。
「週刊新潮」2025年5月1・8日号 掲載