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演技は一流、存在感は唯一無二、ただし破天荒――。昭和の名優、若山富三郎さんが62歳で世を去ったのは1992年4月2日のこと。弟の勝新太郎さんと並んで、生前の強烈な個性はいまも語り草である。今回はそんな富三郎さんの息子、若山騎一郎が2010年に明かした「父の艶福人生」をお届けしよう。
(「週刊新潮」2010年7月1日号「息子が明かす『若山富三郎』艶福人生」をもとに再構成しました)
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【写真】息子の若山騎一郎はJAC出身 千葉真一さんを師と仰ぐ
父が62歳で亡くなったのは、平成4(1992)年4月2日でした。
父の“隠し子”の存在を初めて知ったのは、葬儀の直後でした。親族席に座っていると、一人の女性が近づいてきて、「必ず連絡下さい」と名刺を一枚置いていきました。何だろうと思って、名刺の電話番号に掛けてみると、女性に、「実は、子供がいまして」といきなり告白されたのです。“弟”にあたる男の子の存在を突然、知らされたのです。驚きました。
後にその“弟”に会いにいきましたが、またびっくりです。僕よりもずっと父に似ていました。父に抱かれた写真も見せてもらいました。認知はしていなかったようですが、間違いなく父の子です。あの時“弟”は高校生でしたから、今は35、36歳。立派な大人になっていると思います。
当時、僕には彼を支えるだけの力がなかった。「何かあれば連絡下さい」と言って、別れたきり。その後連絡はありません。僕が“弟”の存在を知ったのは、父が亡くなった後でしたが、父の弟子は別の“隠し子”の存在にも薄々気がついていたようです。
こんな話を聞きました。ある時、父に、「八王子へ行ってくれ」と命じられて車を走らせると、途中で父は、「どうやら俺には娘がいるらしい」と呟いたそうです。八王子に着くと、ある家の前で車を停め、中に入っていきました。弟子は外で待っていたので、家の中で何をしていたのか分かりませんが、恐らくそこが娘の家だったのでしょうね。
実は、僕自身、自分の父親が俳優の若山富三郎だと知ったのは、14歳の時でした。物心がついた時から、母から、「父親は、交通事故で死んだ」と聞かされていました。僕はずっとそうだと信じていたのです。
《若山富三郎は長唄三味線の名手・杵屋勝東治の長男。弟に勝新太郎(1997年6月、65歳で没)がいる。騎一郎氏の母・藤原礼子(2002年9月、69歳で没)は、宝塚から大映入り。「悪名」シリーズで田宮二郎の妻役として人気を博した。若山とは昭和38(1963)年に結婚したが、2年で離婚》
僕が3歳の時、母は実家のある神戸に戻り、三宮で「割烹藤原」と「クラブ藤原」という二つの店を開きました。店には、勝新太郎さんが石原裕次郎さんや田宮二郎さん、歌手の水原弘さんなどの大スターを連れて来ていました。母が大映の女優だったことは知っていたので、そうした面々が店に来ること自体、違和感はありませんでした。
両親が離婚したのは、父に女優・安田道代(後に大楠道代に改名)という愛人がいたことが原因ですが、それと、経済的な苦しさも理由でした。当時、父は圧力鍋を輸入する事業に失敗し、家には米を買うお金さえなかった。そんな父に愛想を尽かし、神戸に帰ったのです。
僕が小学4年生の時、三宮で区画整理計画が持ち上がりました。母は店を閉め、僕を連れて再び上京し、帽子のデザイナーの仕事を始めました。
14歳の時のことです。神戸に帰った時、三宮の理髪店にフラッと入りました。そこの人が、「割烹藤原」のことを知っていたので嬉しくなり、「僕そこの息子なんです」と打ち明けると、「アラ、藤原礼子さんの息子さんなの? あの若山富三郎の奥さんの……」と言われたんです。
こうして僕は思わぬ形で父親の“正体”を知ることになりましたが、父と再会を果たすのは、そのずっと先のことです。
17歳で高校を中退した僕は、俳優の千葉真一さんが(当時)主宰するJAC(ジャパン・アクション・クラブ)に入りました。母に「将来、どうするの?」と聞かれた時、「千葉真一さんが好きだから、芸能界に入りたい」と答えると、母は千葉さんと会う段取りを組んでくれ、JACに入ることができました。
ところが、1年後、合宿中に怪我をしてしまったのです。診断は椎間板ヘルニア。医師からアクションはやめた方がいい、と言われ、母の知り合いの日活の松尾昭典監督の勧めもあって、芝居を勉強するため、劇団「昴」に研究生として入りました。
父と会ったのは、「昴」を卒業した20歳の時です。松尾監督が、「芸能界で生きていくなら一度、父親に会って挨拶しておいた方がいい」と手はずを整えてくれました。
西参道(東京・渋谷)の自宅兼事務所のマンションで初めて会った人は、父・奥村勝(本名)であり、俳優・若山富三郎でした。でも、父という実感のない僕にとっては、大役者・若山富三郎が目の前にいる、という緊張感の方が強かった。
その目の前の大役者に、「ウチ(若山企画)に来て、修業してみないか?」と言われた時は、飛び上がる思いでした。若山企画に入れば、すぐに役者としての道が拓ける、そう思ったのです……が、すぐに甘い考えだと気がつきました。
1、2週間後、熱海の旅館で若山企画の新年会が開かれましたが、その席で父は僕のことをみんなに紹介してくれました。「今日から俺の伜が入ることになったから宜しく」と。僕はこれから若山富三郎の息子として、可愛がられるだろうな、と淡い期待を抱いたわけです。でも、父はこう続けたのです。
「まだ何も出来ないんで、俺の付き人から始めさせる。お前ら、引っぱたいてもいいから面倒見てくれ」
僕はいきなり、“坊ちゃん”から一番下っぱの付き人に格下げです。それまで優しかったお手伝いさんまでが、夜中に突然、僕に、「お寿司を食べたくなった。買ってきてよ」などと言い出す始末。それから2年間、月曜から土曜日まで毎日、父の仕事がなくても事務所に詰めて、父を“先生”と呼びながら働きました。月10万円の給料は良かったけれど、精神的にはキツかった。
とにかく父は僕に対して厳しかった。しょっちゅう殴られ、蹴られるんです。父が指を二本出したら、すぐにタバコを出さないとバシーンとビンタが飛んでくる。父は僕を息子として扱うのが照れくさかったんだろうし、えこ贔屓だと思われないように人一倍厳しく接していたんだと思います。
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厳しい付き人生活でもっとも驚いたのは、さながら“大奥”のような人間関係――。第2回【個人事務所は“大奥”状態…息子が見た昭和の名優・若山富三郎の破天荒すぎる「艶福人生」】では、出入りする女性の「ほとんどは父の“お手つき”」だったという当時の若山企画について語っている。
デイリー新潮編集部