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共同通信の特報が放たれたのは、2025年1月22日の午後だった。
〈天皇、皇后両陛下が戦後80年に当たり、戦没者慰霊のため、太平洋戦争の激戦地・硫黄島を4月に訪問される方向で宮内庁が検討していることが22日、関係者への取材で分かった。今年は被爆地の広島と長崎、激しい地上戦で多数の住民が犠牲になった沖縄への訪問も検討しており、両陛下は節目の年に戦禍の地を巡り、平和への思いを改めて示す見通しだ〉
2025年は戦後80年の節目の年だ。両陛下が、上皇上皇后両陛下が戦後50年に行った「慰霊の旅」をどのように継承されるのか、報道機関や皇室ウォッチャーの間で注目されていた。
1960年生まれの今上天皇は、初の戦後生まれの天皇だ。2019年の即位後、硫黄島について初めて公の場で言及されたのは2023年の「お誕生日会見」だった。
沖縄と並び、凄惨な地上戦の舞台となり、1万人を超える遺骨が今なお眠る島へのお気持ちを問われた瞬間、陛下の表情は厳かに変わった。そして一語一句を慎重に紡ぎ出すように話された。
「上皇上皇后両陛下から硫黄島に行かれた時の話をいろいろと伺っております。大変悲惨な戦闘が行われ、また多くの方が亡くなられたことを、私も本当に残念に思っておりますし、このような硫黄島も含めて、日本各地で様々な形で多くの人々が亡くなられている。こういった戦争中の歴史についても、私自身、今後ともやはりいろいろと理解を深めていきたいというように思っております」
上皇さまは在位中の1994年、歴代天皇の中で初めて硫黄島に立たれた。その際の御製(ぎょせい)「精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」は、多くの人の心に刻まれた。
当時、皇太子だった今上天皇は、上皇ご夫妻から訪問の様子を詳しく聞き、その思いを深く胸に留められた。そして即位後初の戦後の節目となる2025年、戦禍の地を巡る最初の訪問先として、硫黄島が選ばれたのである。在位中の天皇の訪問は2例目。だが、令和の陛下は先代が刻まなかった“初”を硫黄島の歴史に記すこととなった。
「スケオさんはね」――。父島に暮らす旧硫黄島民1世や2世の間で、これほど敬愛を込めて語られる名前はないだろう。宮川典男(すけお)(故人)。硫黄島出身の宮川は、軍属として島に残された親族7人全員を失うという痛ましい体験をしていた。
終戦後は建設業を営みながら帰島を願い続けた。遺骨収容活動などに私財を惜しみなく投じ、生涯をかけて島の記憶を守り続けた。
宮川は、1994年の上皇ご夫妻の硫黄島初訪問を前に、東京都や宮内庁と“戦った”男だった。読売新聞の記事によると、“戦い”の経過は次の通りだ。
初訪問の計画について、旧島民28人が抗議の声をあげた。その先頭に立ったのが宮川典男だった。抗議の理由は、行政側の判断によって、島内を巡るコースから硫黄島島民平和祈念墓地公園(島民墓地)が外されたからだった。
島民墓地には、戦死した島民の名前が刻まれた御影石の碑がある。宮川たちは小笠原村に対し、コースの見直しを求める要望書を提出したが、「変更は難しい」と拒否された。
宮川は諦めなかった。「両陛下がお参りされるはずと信じていた。時間を30分も延ばせば拝礼できるはず」。そんな思いで上京した宮川の行動の結果は、同年1月25日付の読売新聞の続報で報じられた。
〈旧島民らが反発していたが、最終的には両陛下が慰霊碑のすぐそばを通られるコースに落ちついた〉
宮川たちの抗議が行政の壁を動かしたのだ。しかし、限界もあった。拝礼は、墓地の近くを通過する際に車内から行われるという形式となった。
この経緯を知る旧島民や関係者の間では、今回のコースに注目が集まっていた。
31年前と同じように、直接の拝礼はないのではないか。そんな懸念の声も聞かれた。しかし、結果は彼らの予想を覆した。関係者に事前に配られた資料「両陛下行幸啓 御日程」には、はっきりとこう記されていたのだ。
〈15:42 硫黄島島民平和祈念墓地公園(11分) 御拝礼〉
この1行に、旧島民たちは歓喜した。宮川の願いが、31年の歳月を経てついに叶うのだ。令和の陛下が硫黄島に刻んだ初めての歴史。それは、旧島民の犠牲者たちへの直接の拝礼だった。
2025年4月7日の朝。午前9時半、皇居の乾門から白バイに先導された漆黒の車列が姿を現した。途中の信号はすべて青に変わり、車列は30分後に羽田空港に到着した。
車列が向かったのは一般客で賑わう出発ロビーではなく、滑走路脇の駐機場だった。そこには日の丸を両翼と尾翼に配した政府専用機が待機していた。やがて、タラップ近くに停車した車のドアが開かれ、ダークスーツ姿の第126代天皇陛下と皇后陛下が現れた。側近らに会釈をされた両陛下は、タラップを上っていかれた。
定刻の午前10時10分、政府専用機は滑走路を駆け抜け、本土からおよそ1200キロ南方の硫黄島へと飛び立った。
その機内に全国硫黄島島民3世の会会長の西村怜馬の姿があった。2月に東京都から電話があり、両陛下の行幸啓に合わせて硫黄島を訪問してほしいと打診されたときには、西村は心底驚いた。同様の打診は硫黄島帰島促進協議会会長の麻生憲司にもあった。彼もまた同機に搭乗していた。
羽田出発から2時間半後の午後12時半過ぎ、機体は硫黄島の上空から降下を始めた。島全体が雨に包まれていた。歴史的な初訪問日の雨天を残念に思うのが普通だろうが、西村の胸にはまったく別の感情が湧き上がっていた。かつて島民1世たちから聞いた言葉を思い出したからだ。
「硫黄島ではね、雨が降ると島民たちはみんな大騒ぎでバケツを外に出したりしていたんだよ。川がない島だから、うれしくて」
島民たちは貴重な雨を“天水”と呼んでいた。西村は濡れた滑走路を見つめながら思った。
「これは雨じゃない。両陛下の到着を、天国の島民たちが喜びの天水で迎えているんだ」
午後12時54分。両陛下が硫黄島に降り立たれた。小笠原村の村長、渋谷正昭をはじめとする一団が出迎えた。
小笠原村在住硫黄島旧島民の会事務局長の楠明博は、その瞬間を約10メートル離れた場所から、感慨深く見つめていた。西村や麻生と同じく、楠も2月に東京都から島内訪問への同行を打診されていた一人だった。この日の朝早く、渋谷らと父島からヘリで先着していた。
打診を受けた日、父島で同居する母・千代音に告げると、彼女は父の仏壇へと歩み寄った。
「お父さん、明博がね、陛下と会うんだって。必ず行くからよろしくね」。その言葉は喜びに満ちていた。
硫黄島で生まれた千代音はわずか4歳で故郷を追われ、父・高橋廣は軍属として島に残され、二度と再会することはなかった。父の遺骨は見つからず、この島のどこかに眠っている。
楠らは政府専用機から降り立ったばかりの西村や麻生らと合流した。両陛下の一行は厳かな足取りで天山慰霊碑へ向かわれたが、楠たちにはその次の訪問地点となる島民墓地へと先回りするよう指示が出ていた。
午後3時42分、島民墓地。ほぼ定刻通りに両陛下の姿が見えた。天皇陛下は右手に黒い傘を構え、皇后陛下は両手で傘を支えながら歩みを進められた。献花台で純白のユリなどの花束を捧げられ、8秒間、頭を垂れられた。顔を上げられたとき、天皇陛下は口元を引き締められていた。鎮魂の思いを強く心に刻まれたようだった。
楠の胸の内で「ありがとうございます」という言葉が幾度となく湧き上がった。隣に立つ麻生の胸にも万感の思いが込み上げていた。「硫黄島戦で亡くなった2万人のうち、島民は93人。93人のために、この雨の中、お車を降り、心を寄せてくださった」。
拝礼を終えた両陛下は、渋谷に先導される形で、車に向けて再び歩みを進められた。戦死した島民軍属の碑の前に差し掛かったとき、両陛下は足を止められた。そして、渋谷が楠らに向けて手招きをした。その合図は事前の打ち合わせにはなかったものだった。それだけに驚きながら楠、西村、麻生は、碑の前に立つ両陛下のもとへと急いだ。
渋谷は、碑に刻まれた名前は硫黄島戦に巻き込まれた島民たちであること、そしてここにいる3人は彼らの子孫であることを丁寧に説明した。そのとき、天皇陛下の小さな声が、すぐそばに立っていた西村の耳に届いた。
「残念なことです……」
驚いて目を向けた陛下の表情には、島民たちの苦難を我がことのように感じられる、言葉にならない悲しみが浮かんでいた。
午後4時55分。島民墓地に続き、鎮魂の丘での拝礼を終えられた両陛下は、同行者との懇談のため基地内の厚生館に姿を現された。この瞬間を待っていた人々の中に旧島民の子孫3人もいた。両陛下が一人ひとりに言葉をかけられる特別な時間が始まろうとしていた。
旧島民の子孫として最初に両陛下の前に立ったのは麻生だった。緊張した面持ちで自己紹介すると、天皇陛下から予想外の言葉が返ってきた。
「ニュースで見ていますよ」
麻生は驚いた。1カ月半前に彼が国土交通省に提出した「帰島実現」の要望書の報道を、陛下が見ておられたのだ。その瞬間、麻生は、口にするかどうか躊躇していた言葉を、勇気を出して発した。
「陛下、本来であれば全島民でお迎えするところを、私たちは事情があってお迎えできないのです。が、島民代表の一人として、本日のご来島とご慰霊に心より感謝申し上げます」
この言葉には悲しみを込めていた。どのご訪問先でも、地元の住民たちが大挙して両陛下をお迎えするのに、硫黄島民だけがそれを許されない現実。陛下は特別な反応をされなかったが、麻生は自分の思いが届いたと感じ、帰島に関するこれ以上の発言は控えた。
両陛下は、一際若い西村の前に立たれた。西村が「孫の代でいろいろな取り組みをしています西村と申します」と自己紹介すると、両陛下は「ああ」と何かを理解された様子だった。祖母が硫黄島出身であると伝えると、天皇陛下は「おばあさまからどんな話をお聞きになっていましたか」と尋ねられた。祖母から聞いた無数のエピソードの中から、西村が口にしたのは、島のかつての豊かさだった。
「特に野菜がすごくよく育つ島で、種をまけばすぐに野菜ができる島のようでした」
両陛下はうなずきながら熱心に聞かれ、「3世の会」の活動について「人数は?」「どのような活動を?」と次々と質問された。胸が熱くなった西村の口から、自然と決意の言葉が出た。
「1世の人たちから聞いた硫黄島の暮らしの様子が忘れられないように、みんなで少しずつ発信して、硫黄島が平和を祈るような島になればいいなと思って、これからも頑張っていきたいです」
その言葉に、天皇陛下は穏やかながらも力強く応えられた。
「今後も皆で体に気を付けて、ぜひ頑張ってください」
西村は、時に「大昔のことをいつまでやっているんだ」と同世代から言われることもある。だからこそ、心を寄せてくださった天皇陛下の激励は、西村に大きな勇気を与えた。「普通は世代が下がるほど過去の記憶は薄れていくものなのに、両陛下は3世の私たちの活動も大切にしてくださった」と感激した。
最後に両陛下と接した旧島民の子孫は楠だった。楠は両陛下に対し、4歳のときに本土に強制疎開となった母が近年になって「死ぬときは硫黄島の近くがいい」と望み、母子二人で父島に移住したことなどを伝えた。静かに聞き入った皇后陛下は「お母様を大事になさってください。お母様によろしくお伝えください」と述べられた。
午後6時すぎ。全日程を終えられた両陛下は、政府専用機で硫黄島を発たれた。来たときと同様、西村や麻生、そして記者団も同機で硫黄島を離れた。こうして今上天皇の初訪問は、幕を閉じた。
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酒井 聡平(さかい・そうへい)
北海道新聞記者
1976年生まれ、北海道出身。2023年2月まで5年間、東京支社編集局報道センターに所属し、戦没者遺骨収集事業を所管する厚生労働省や東京五輪、皇室報道などを担当した。硫黄島には計4回渡り、このうち3回は政府派遣の硫黄島戦没者遺骨収集団のボランティアとして渡島した。土曜・日曜は、戦争などの歴史を取材、発信する自称「旧聞記者」として活動する。取材成果はTwitter(@Iwojima2020)などでも発信している。北海道ノンフィクション集団会員。北海道岩内郡岩内町在住。初の著書に『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)。
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